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十畳合気道場
合気道たらしめること

 徒然と綴ります。



 くだらないことですが、合気道は関節技で相手を倒す術ではありません。関節の極めは見せかけの術であり、気付かれないように全く別の手段で攻めています。事実、関節を極めずとも、相手を反らせたり、落としたり、押さえたり、飛ばしたりできるのです。相手の関節に激痛を伴わせたいのであれば、気取られずに入るだけ動かしてから、瞬時に切り替えて、相手の心臓に効くように極めればよいでしょう。徐々に力が掛かるように極めては、相手に感づかれ、我慢され、反撃されてしまいます。ゆっくり動いても掛かるのと、ゆっくり力を込めるのとは別物です。

 ここを押すと曲がる、こう極めると痛い、この方向に崩すというのは、体術において基本中の基本としても誤りではないでしょう。しかし、うかつに行えば、しくじります。実戦の場で使えるのかと訊ねられて、やってみなければ分からないと答えるしかないならば、一目散に逃げるが勝ちです。力学的な法則だけでは、限界があるのです。

 相手がどう感じるかが、原点です。無限とも思える動きの選択肢の中から、相手が無意識に反応してしまうもの、全く反応できないもの、本能的に避けようとするもの、吸い寄せられてしまうものを選んでいるのです。故に、技は毎回異なり、正確にて微妙なのです。

 視点は、外から見ている第三者、相手、自分があります。第三者から観て美しいと思えることは結果であり、必要条件であっても、十分条件ではありません。第三者、相手、自分が、同一事象において、異なるイメージになることが味噌です。

 技を構成するつくり、手順、イメージといった術は、所詮、補佐に過ぎません。心理的および生体的な『心体の原理』を研究する必要があります。



 合気道の稽古は、1対1の約束組手で行うことが多いでしょう。間合いを切る前、間合いを切る瞬間、接する瞬間、接した後、極まる瞬間、倒した後のすべてを味わいます。そのためには、十分に離れた位置から互いに歩み寄って、技を掛けます。相手と接するまでに、すでに半分の術が済んでいます。約束組手の前段階として、歩み、流しをある程度習得しておく必要があります。

 静止して相手に十分掴ませてから行う試技もありますが、我が流儀にはそぐいません。これが、現行の合気道場から遠ざかっている最大の理由です。術を理解した手馴れの者であれば、折ろうとすれば折れ、絞めようとすれば絞めれます。まして、間合いを切ったところからの突き蹴りやナイフ捌きを見切ることは、自分にはできません。その術を修得していないと言えばそれまでですが、逆にかなりの手加減無しには成立しない稽古に、意味は無いと思えます。やはり、間合いを制御する術を含めて稽古すべきです。

 実戦で合気道と呼べるものを用いたことはないのですが、拳銃、ナイフ、殴る蹴る、力技とは異なり、相手が死に至らなければ、心に響くものを与えられるのではないかと思っています。稽古の中からそう感じるのであって、うまくやられたという感覚は、敵に興味を抱かせる第一歩だと思うのです。先人達が和と連呼されるのも分かる気がします。

 合気道の稽古は、不思議なことの積み重ねです。痛いだけで、不思議と感じられないならば、指導者の力量不足で、合気の術を使っていないということです。また、不思議と感じたことの説明を受けて分かったつもりでも、なかなかその通りには動けません。謎が一つ解けただけでは、即強くはならないし、謎は深まるばかりです。しかし、さっきの自分と今の自分の差を感じ取れるはずです。知り得た要素も役立ちますが、成長が実感できて、『向上心』を刺激し続けてくれることが、人生にとって大きいのではないでしょうか。
 
『合気道は、手刀の武道』
 手に刀と書いて、一般的には[しゅとう]と呼ばれ、相手を打つ、斬る、突く、払うという動きが伴います。合気道では一般的に[てがたな]と呼び、手刀をつくる、解放する、反す、相手に触れる、くっ付く、相手を吸い寄せる、撫でる、落とす、流す、浮かすといった動きを稽古します。

 手刀は、心臓と指先が繋がる帯で、手の部分を立体的に使います。手刀をつくり、これを解放し、解放した手刀を反すことにより、相手が渦を感じます。強い手刀と弱い手刀を熟知し、仮想剣に働きかければ、技が活きてきます。

 触れることが身に付いてくると、表面が重要であることに気付くはずです。芯を受けてはならず、芯で受けてはならず、芯で攻めてはならず。撫でて、相手のずれた芯に働きかけます。

 1つと思えるものを分割します。1本の腕を4芯。体を上下、左右、背腹で8塊。まずは、直感が働きやすい2で割っていますが、慣れてきたら体を心臓を中として三分割します。

 合気道では基本的に1点で崩します。2点3点で崩しているときも、主1点だけでも充分に崩せるように行っています。1点である理由があるのです。しかし、気づかれないように1点を2点で攻めており、相手が反応できない間にベクトルやぼかしが生まれています。

 ここまで述べるとお察しの通り、触れたところ、繋がったところが武器になります。しかし、それらは、技の力点そのものではなく、技の力点をつくる引き金のようなものです。触れた場所とは、異なるところを攻めています。手刀は、最も使える武器の一例に過ぎず、体全体を武器にすることができます。



 合気道は、打つ、掴むなどの直接的攻撃を捨てた代わりに、空間や時間の間合いといった間接的攻撃を得たと言っても過言ではありません。

 その攻撃の要が騙しであり、一番難しいのですが、一番面白いでしょう。空間を劇的に変化させることにより、遠近、上下、左右、大小、攻防のすべてが逆転します。ゲームのオセロのようなものです。

 自分自身の体格を活かすという考えを、一旦横に預けて、習練する必要があります。凍った坂では、踏ん張りも空しく、誰もが滑ります。騙しが、この凍った坂のような必然を作り出すのです。

 技は、瞬時と待ちの幾つもの組み合わせで、成り立っています。瞬時は、意識レベルで行うものは限りなく0秒、行動に表れるものは0.2秒程度です。待ちは、相手の無意識的な反応を待ちます。待ちは、戻し、浮かし、流し、飛ばし、倒しなどに相当しており、単に止まって待つのではありません。

 自分がイメージする複数の異種の玉が変化することにより、相手も自分も動かされ、共に無重力空間にいざなわれ、相手の自由を奪います。相手だけを、無重力空間に持って行くのではありません。

 相手と自分の軸を体外に引き出して、融合させます。この軸が相手の攻撃も邪魔します。この軸を揺り動かすと、相手も自分も動き出します。この軸に手刀の反しで働きかけることで、相手が渦を感じます。究極的には、空間を操ることは、すべての武術に通ずるといえるでしょう。



 体得が先か、理屈が先か。体得の中から理屈が生まれ、理屈に気づいて体得が加速されます。卵も鶏もありません。とうに教えられていたのに、発見だと感じてしまいます。これもまた楽しでしょう。

 体を動かし、頭で考え、これらを何度も繰り返し、感覚を身に付けます。この感覚を知った者だけが、この感覚を磨き、研ぎ澄ます、次の次元に進めます。

 自由であること。教えられたことがすべてではありません。武道たるもの、咀嚼して自分のものにする完全孤立の一人稽古が必須です。型に囚われず、気が型を利用する域を目指します。

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