ガレコレ
Garage Collection
 
2016年5月21日(土)
往く者は追わず来る者は距まず。 #※トドロ

 「ゆくものはおわず、きたるものはこばまず」と正式には読むようだ。

 トドロは、大学時代の合気道部で「来[く]る者は拒まず、去[さ]る者は追わず」と使ってきたので、『去る者』に重きを置いていて、大分ニュアンスを履き違えている。

 合気道のような武道は、興味があって始めても、なかなか続かない。なので、去っていく仲間だった者たちへの未練を断ち切るという思いで使っていた。まあ、実際は未練たらたらで、合気道でも、仕事でも、恋愛でも、何度も苦しい思いをしてきている。



 原文は、孟子の盡心章句下(尽心下)三十からである。

--「孟子を読む」よりまるまる引用--

孟子之滕、館於上宮、有業屨於牖上、館人求之弗得、或人之曰、若是乎從者之廋也、曰、子以是爲竊屨來與、曰、殆非也、夫予之設科也、往者不追、來者不距、苟以是心至、斯受之而已矣。

 孟子は滕国に入って、用意された上宮(じょうきゅう)という館に宿泊した。しかしそこで、造りかけのわら靴が窓ぎわに置いてあったのが、館の者が探しても見つからなかった。ある人が孟子に問うた、

 ある人「あなたの従者はこんなことをするのですか!盗んで隠したんでしょう!」

 孟子「あなたは、私どもがここに靴を盗みに来たとでもお思いなのか?」

 ある人「いえ、そうとは思いませんが、、、」

 孟子「余が教科を立てて弟子を取るにおいては、『往(さ)る者は追わず、来る者は距(こば)まず』の姿勢でやっている。いやしくも君子になろうという志を持って余の下に来ている者たちならば、受け入れているのだ。(だからひょっとしたら不届者がいたかもしれないが、私ども全体をけなすのはやめていただきたい。)」
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 学生時代に、勉強した覚えがある。注釈を読む限り、王道を説くに当たり、些細なことは見逃してほしいと、言い訳しているようで笑える。

 また、こばまずが、『距まず』と『拒まず』で足偏と手偏なのも面白い。拒まずだと絶対拒否だけと、距まずだと距離を遠ざけるというような感じがして、緩やかなお断りはあるのかなあと思ったりもする。実際は、常用漢字の問題だろうが。。。



 自分は、明らかに迷惑者でない限り『来る者は距まず』を貫き通している。逆に言うと、迷惑者と断定した場合、完全なる拒絶を貫くことにしている。孟子の性善説からかなり食み出た人も多々いると考えた方が、自然である。

 日本の学歴社会では、入試でふるいに掛ける。能力と言うか、努力を評価する仕組みである。しかし、能力があると、吸収の妨げになることがしばしばある。

 例えば、合気道の稽古において「ついつい空手の癖が出まして・・・」と言い訳して、合気の術がなかなか習得が進まないのは、白紙にして受け入れる心が育っていないと、みなしている。頭では分かっていても、心の根っこを入れ替えない限り、無理な話である。

 何事にも『白紙』から取り組むことが基本である。『経験』には正誤入り乱れていると気づくことが大切である。物事の取捨を進めることが人生である。


P.S. 「馬を牛と言う」・・・捻くれた解釈で、こんなことわざも生まれるんだね。
--「故事ことわざ辞典」より引用--
http://kotowaza-allguide.com/u/umawoushitoiu.html
 馬を牛と言うとは、権力などを利用して、自分の主張を無理に押し通すことのたとえ。また、人の心の中を推測することのたとえ。
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http://sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius14-30.html
 
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