2015年11月29日(日)
富山の実家を出た理由 #※トドロ 別段に特別なことではないだろうが、幼少期において実家は居づらいところであろう。自分もそうであった。意外だろうが、中学生の頃、家出を考えたこともあった。まあ、実際は大学に出させてもらって、これが事実上の家出だったと言えよう。その後、長い長い家出生活が続いている。
友人を連れてきたら、両親およびお爺さんが機嫌が悪くなったもんだ。家とは外敵を寄せ付けないテリトリーという考えに支配されているんだな。それはそうだけど、家は人を招き入れる場所でもあることを忘れている。おそらく、富山ではこの考え方が主流だったのかもしれない。
高知の良さは、人を招き入れることにいっさいの迷いがないことである。その後の人付き合いが下手であることは玉に瑕なのだが、こんな気風が気に入って、終の棲家としている。
幼少期に出来なかったことを、大人になってから追随している。武術にのめり込み、パソコンに明け暮れ、祭りに参加している。
幼少期において不満が2つあった。定額の小遣いが無かったことと、祭りや柔道や元旦マラソンに反対されて参加できなかったこと。サイクリングや泳ぎにこれでもかというくらい連れて行ってくれて楽しかったが、その他のことに関しては束縛されていると感じていた。病弱で体も小さかったので、反対したのも今となっては分かるが、当時悔しくて泣いたものである。まあ、泣き虫さんであった。
大きくなってから不満が1つある。冠婚葬祭やその他の晴れの日に、とてつもなく疎いこと。高校時代に富山県でバスケットの北信越地区大会があっても、大学時代に富山県で水産学会の発表があっても、来てくれることは無かった。身内が亡くなっても連絡が無い。妹の結婚に関しては、大変な時期ではあったのだけど、可哀そうでいられず、未だに問題を引き摺っている。
今年、お爺さん、お父さんと相次いで亡くなり、悲しみとともに岩瀬家の怨念は払われたと思ったが、まだ母が囚われている。母は、父も戦争の犠牲者と呟くが、そんなことは全国いたるところであったことと言いたい。歳を取ると心は幼年に戻るのか、父は決してとけることのない思念でいっぱいだったようである。
母が抱えている岩瀬家の荷物を捨てることから始めようと、話し合いが続く日々である。
P.S. 中学の理科で交配を習った時、親戚内の血液型がおかしいことに気づいた。父自身は、高校生になるときに知ったらしい。お爺さんがきちんとした家系図を書こうと言ったとき、お父さんが鬼の形相になったことを覚えている。父が亡くなった住まいには、初めて見る実の祖父の写真が飾ってあった。すべての根源がここにあると分かりながら、父が亡くなるまでどうにもしてあげれなかった無力感が残る。
P.S.2 父は、墓守役として人一倍やっていたが、実の生活には活かされなかった。亡くなった人、祖先を想っているだけでは片手落ちと知った。
P.S.3 叔父さんが、家に彼女(現在の妻)を連れてきたとき大変だったと、同じ気持ちだったことが笑える。
P.S.4 同級生や後輩からも、喪中はがきが届いている。もういい歳だもんね。ほんと、お互いに元気出しましょう。
P.S.5 ずっと応援してもらっていることを感じられないでいたが、最近父が何度も高知に来てくれて、お仕事を手伝ってくれたのが嬉しかった。こちらも、いつ最後の親孝行になるかと精一杯できたのが幸いかな。