2014年8月26日(火)
全国学力テスト #イベント 『過ぎたるは猶及ばざるが如し』という言葉を、座右の銘の一つにしている。
今回のテストの結果をみると、秋田、福井、富山(トドロの出身地)、石川の健闘ぶりには、むしろ寒気がするかな。長年住んでいた静岡も、上位に食い込んでいる。
トドロも、このようなテストでは、平均点を上げていた部類に入るが、義務教育は思考回路のトレーニングと割り切っていたので、パズル感覚でしかなかった。
高知はというと、このデータだけでは、どう評価していいか分からないが、低いなあという感じである。
大学受験で、合否を決めるのは、赤本的対策も重要である。これが、のちの人生を決めると思うと、いささか教育に不信を抱いてしまう。テストというと、ふるいに掛けるイメージが強く、中国の科挙制度から何ら進歩していないと思えてしまう。レベルを揃えて教育することに、甚だ疑問である。教える側、人を使う側の論理であろう。
代々木ゼミナールの閉鎖が話題になっているが、かつて、多くの者がこぞって講義を聴きたくて列を成したものである。拝金主義的な匂いがするが、希望者には大学よりも門戸を広げていたという点では、トドロが考える理想に近い。
テストでは、基礎問題と応用問題を区別す必要がある。基礎問題は、データベース的知識であり、知っているか知っていないかに過ぎない。合気道で例えると、基礎問題は1つの術であり、応用問題は術を複数組み合わせるということになる。
複数組み合わせるということは、選択と調整が必要になる。術の選択は誰しも思い付くのだが、程度の調整が必要であることは、案外見落としがちである。フィードバックして新たな術が生まれ、究極的には本質に触れるところまで行きたいものである。
覚えるとは、覚醒であり、自ら発見したという感覚がなければ、身に付かない。流れが見えて、1点1点が見えてきたとき、面白くなるだろう。
世の中には、問題が山積している。問題を見て見ぬふりをしたり、気付かない様に誘導されていたり、人は泡が弾けるまで問題を先送りしようとするものである。問題を解決する能力はあっても、問題提起できないのであれば、机上の空論である。