2014年8月15日(金)
終戦記念日 #イベント 正式には『戦没者を追悼し平和を祈念する日』で、終戦記念日、終戦の日と称される。
記念という言葉は、平和な時代に育った自分たちには、結婚記念日、記念コインなど、良いことにしか連想できない。省略する場合は、終戦の日と呼ぶのが相応しいだろう。
戦争で矢面に立つのは、訓練を積んだ強者ではなく、普通の一般人である。えっ、前線は自衛隊じゃないのと思われるかもしれないが、軍事専門家は後方で作戦指揮にあたるものだ。将来、日本で戦争が起きた場合も、例外ではない。
訳も分からず、銃弾の嵐に放り込まれ、飢えに耐えなければいけない。あの部隊に入りたいとか、戦果を上げたいとか、英雄になろうとか、殉教者になろうとか、家族のために、国のためにと、それぐらいしか夢が語れなくなる。一見、高尚な夢のようにも見えるが、これが戦争の本質に振り回されている姿である。
8/15を終戦の日としているのは、韓国(光復節)、北朝鮮(祖国解放記念日)、日本である。ポツダム宣言により、アメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、カナダが、9/2を終戦の日としている。9/3は、中国(抗日戦争勝利の日)、台湾(軍人節)、旧ソ連(対日戦勝記念日)が、終戦の日に相当する。
自分たち日本人は、日中戦争が太平洋戦争に拡大して、総じて大東亜戦争とか第二次世界大戦と呼んでいる。しかし、近隣各国における終戦の日の呼び方から、日本との戦いであったと察しなければいけないのだろう。アジアを植民地化から開放するというのが日本の正義だったが、結局は日本支配に置き換わっただけというのが、欧米諸国の誘導もあるだろうが、各国の思いを代弁しているだろう。
事の真偽はさほど重要ではなく、嘘でも多数で言い続けることが、世界観を確立させる。某国だけでなく、日本もそうであると、冷静に判断しなければいけない。ベテランを自負する船頭は、決して危ないとは言わない。身近なところでは、出鱈目な噂や中傷でも、相手を引き摺り下ろしたり、命をも奪うことができる。
真偽を1つ明らかにしたところで、一度根が張ってしまったものは、そう易々とはひっくり返らない。相手の嘘を、理解した上で、嘘と決め付けてしまわないのが、賢者のやり方である。しかし、下手に出れば付け込まれるだけであり、度量が決め手となる。自分には到底できそうもないので、愚者のやり方を模索するも、答えには至っていない。
保障問題は、精算済みように見えて、様々な不義も絡み、実は全く達していないと考えるのが正論であろう。1からとは言わない、お互い妥協できる折り返し地点から再出発する時期に来ている。戦争とは、たとえ千年経ったとしても、嫌悪が消えることは無く、自己の正義だけが際立っていき、臨界に達すれば再び戦争となる厄介な代物である。
自分たちの世代は、教育カリキュラムの都合で、近代史(明治、大正、昭和)に関しては、薄っぺらな知識しかない。歴史といえば、四大文明、三国志、フランス革命、古事記、戦国時代、明治維新である。社会人になってから、独学で勉強しようとするも、身に沁み込んでこない。中国で六四天安門事件を中国の若者が知らない様に、国を否定できないよう、上手く情報操作されている。
一旦出来上がった世界観を崩せる人は、ほとんどいない。人は、積み上げてきたことを信じ、すがる。そして、目から鱗、青天の霹靂と感じても、真理からは程遠いものである。