ガレコレ [Garage Collection]
2019年7月22日(月)
三節の礼 #■合気道
 『三節の礼』は、神に対する礼、師に対する礼、お互いに対する礼を意味します。稽古の開始時と終了時において、『黙想』に続いて行います。

 神に対する礼は、「正面に対して礼」と発して、稽古の場と時を与えてもらったことに感謝します。

 この『神に対する礼』が曲者で、信仰上出来ないという方が過去に何人かおられました。『師に対する礼』は、その場に居られない先人方々も思って行うものですが、この考え方も受け入れ難いようでした。信仰心が強い人ほど顕著であり、信仰心を持たない自分には別次元の問題です。

 なので、ガレコレ十畳合気道場では、三節の礼を省略して、『お互いに対する礼』のみ行うことにしております。

 先週土曜日の道場で、一番弟子から「何故、先生は上座で礼をしないのですか?」と問われました。上記の経緯を話して、師に対する礼も省略しているので、上座下座も設けていないと説明しました。

 また、当道場には、空手や少林寺拳法などのつわものどもが寄り集まって、お互いに教え合っていた時期があります。今も、一番弟子には徒手格闘の一片を指導してもらっています。意図的でもありましたが、割と自然と、上座下座が取っ払われた訳です。


P.S. 『三節の礼』で検索したら、思いがけない動画が出てきました。静岡大学浜松キャンパスで開催された鍋田師範による第一回合気道演武大会ですね。涙が出る程、懐かしい。

道場三節の礼(昭和63年)
https://www.youtube.com/watch?v=sS6qP8Jqroc

P.S.1-2 竹宮惠子著『エデン2185』のエピローグにおいて、バーに入った主人公シドが、店に貼ってあった若き日の自分の写真に「もう少し あの張りつめた顔をみていたい───」と呟く。そんな気分です。


P.S.2 大学の合気道部にはいくつかの伝統があって、バイトでは蕎麦屋や紀文おでんの仕分けがありました。剛柔流空手道場もその一つで、通っている面々を『合気道部空手課』と部署名で揶揄したものです。

 自分は空手には馴染めないと考えていたので通いませんでしたが、先生の自宅にお邪魔しては、吐くまで飲ませて頂いたのは良き思い出です。その頃の自分は、合気道や武道におけるビジョンは曖昧でしたが、将来に渡って合気道を続けていくだろうなと思っていました。先輩から「どうせ卒業したら辞めるだろう」と言われたとき、否定しましたが、4年で富山県に帰っていたら、そうだったかもしれません。決心したのは、師範が倒れられた大学修士1年のときでした。

 社会人になってから、柔道を始めました。稽古や試合で歯が立たず、合気道部で何やっていたのだろうと思ったものです。しかし、試合で合気道の腰投げ風な投げ技が出せたり、自分の合気道に足りないものが見えました。

 流派・武術の垣根を超えての稽古は、緊張感と開放感があります。「ガレコレの道場は、来るもの拒まずでよくやれるなあ」と言われます。傍から見ればおっかないことなのでしょうが、風来坊で生きてきた自分は、そんな感覚が麻痺しているのでしょう。

 十畳合気道場は、道場生によって変化してきました。現在は、道場生からの要望で、『基礎トレーニング』と『柔軟運動』に半分の時間を費やしています。ヨガを習っている方がいたり、鍼灸指圧の先生ご夫婦から今度始めたいと言われています。垣根を取っ払うことで、総合的な道場になっていると感じています。まあ、あれもこれもやりたいという自分の性ですかね。


P.S.3 当道場では、打撃系の道場生が多かったことから、合気道を学んでもらうのに、片手持ちや正面打ちではなく、いきなり直突きに対して行ってきました。

 素人の突きは、ナチュラルフックになりがちで、結構捌きにくいものです。これを捌くのも楽しみの一つなのですが、徒手格闘をやってきた一番弟子が、しっかりとした直突きを教えたいと張り切りました。自分がサンドバックになってあげて、武術未経験の道場生さん達は直突きに快感を覚えましたね。「先生は、Mだから大丈夫」と言われても、Mじゃないし、痛いものはちと痛い。
 
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