ガレコレ [Garage Collection]
2016年10月1日(土)
守破離[しゅはり] ■合気道
 言葉の由来は諸説あり、ここでの議論は省略します。

 修行の段階を表しています。下記は、一般的なところです。

 守: 基本の修得
 破: 創意工夫の試み
 離: 独自の境地の発展

 自分は、静岡大学合気道の部活動を通じて、『守破離』という言葉を知ることとなります。

 故先生は、合気道鉄心会として『守破離』『再び守破離』『三たび守破離』を自費出版されています。「人生とは、守破離の繰り返し」と、何度も聞かされました。

 「『守』は大事。だが、『守』に留まらず、『破』『離』と修行段階を進めなければいけない。迷ったら、『守』に戻って出直す。」自分はそう捉えています。

 自分は、大学に長くいたこともあり、純粋に『守』と呼べる時間を6年間過ごさせて頂きました。内2年間は、先生が倒れられて、口頭にてご指導頂きました。この2年間が無ければ、今の自分の合気道は無かったと思います。その当時は、分からなかったことが、あとになって活きてくるものです。

 『守』とは言われたことを守ることと、受け身に捉えていては身に付きません。

 自分の指導方法は、故先生のやり方を継承していましたが、最近は変わってきています。先生は、正しい動きしか示してくれず、パッととかサッととか、舌っ足らずな説明で、真似るしかありませんでした。自分も調子が上がってくると未だに同じ傾向があり、道場生がついて来れていない状況に陥ったりしています。

 自分は、今までに間違った動きも長いことやっていたため、間違った動きも上手に再現できます。正誤を対比させて、気づかせる指導になってきました。違いが分からないと言われることもしばしばですが、一旦気づいてもらえると、そうとしか思えないところが魔訶不思議です。

 内弟子は、自分が口にすることを疑ってくれます。おおよそ、言葉には、嘘が秘められています。目安であり、妥協点であり、方向性を示したに過ぎず、捉え方によっては誤りを引き寄せたりします。自分も、文章を綴っておきながら、あとから読み返すと、いかんなあと思うことがよくあります。この内弟子は、言われたことをどう解釈するではなく、感じたことを素直に受け入れようと切り替えたそうです。

 守るべきことは、型ではありません。感じること、真似ることが、守るべきことを知る手掛かりです。分かったふりをせず、基本および本質を見極めよう努力することが、『守』であると考えます。

 故先生から「社会人になったら、柔道をやってみろ」と言われて、合気道と並行して柔道をやった10年間が、純粋に『破』の時間でした。考えていたことが通用しない、何を身につけなければいけないのか、悩んだ日々でした。柔道をやることで技術的に幾つか気づいたことがあり、拳大の空間を認識して技を掛けることもその1つです。今では、独自的に、ゼロレンジとかちゅるんとか呼んでいます。いろいろ試して、今の自分に足りないものを探すことが『破』ですね。

 来年1月で、道場を開いて10年になりますが、『離』の門の付近で、座禅を組んで考えている状態です。材料は揃ったと感じています。あとは、レゴブロックのように組み合わせて、自分の心に描いたものを吐き出せばいいと思っています。

 故先生から言われて久しくなる「本を書いてみろ」を実行する良い時期と思っています。墓前に自分で書いた本を供えることが、『離』の門をくぐった後の一里塚なのかもしれません。

 道場の公開練習では、基本しかやっていません。『離』という境地に辿り着きながらも、純粋に『守』の稽古を続けられることに、心地良さを覚えています。
 
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