ガレコレ [Garage Collection]
2014年9月29日(月)
群れでは馴れ合いになる #■合気道
 久しぶりに、合気道をインターネット検索してみた。今回は、参考になる動画は見つからなかったが、気になることがあった。

 1989年の動画では、自分と髭面の風貌がよく似ており、技も学生時代の頃とよく似たレベルと感じた動画があった。2014年の動画もあるが、何ら進化していない。たしかに、この程度の動きでも、練習する意義はあると思うが、全く意味を成していない。言わば、馴れ合いの技であり、工夫が全くなく、わざわざ総師範として演武披露する必要もなかろう。

 自分が、合気道の団体に属さない理由を、改めて思い起こさせてくれた。道場生が沢山おられ賑やかだが、これでは可哀そうである。かなり厳しい言葉になったが、合気道が普及しない理由をまざまざと見せつけられて、憤慨していると思って頂ければ幸いである。

 姿勢、間合い、手刀、体捌き、いずれも域に達していない。

 群れでいる限り、指導者の間違いは正されることはない。それが合気道の根幹に関わることであってもだ。つまり、天辺の者は、自分で正していくしかない。

 修行段階でいうところ、『守破離』の『破』は、自分一人で行うべきである。見聞を広め、疑問に誠実に向き合い、見つめ直す作業である。自分は、ほぼ自分のみで7年を費やし、その後新たに集まった武術好きの数人で7年を過ごしてきて現在に至っている。その前の10年は柔道をかじり、自分が習得した合気道の有効性と間違いを、どちらも知ることとなったのである。

 確信して言えることは、道場では、間違っていてもいいので、上からも下からも言える環境でなければいけないということだ。

 道場主である自分は、圧倒的に本質を固めてきているのだが、これ無しでは道場を開く価値がない。

 道場生からの質問や意見には、即答することにしている。技は黙って盗むものという考えも正しいが、普通に考えては一生かかっても盗めないことをやっており、その答えだけで分かれば大したものである。このブログの箇条書きや文章であれば、猶更であろう。まあ、自分に答えがあるということが伝わればいいかなというスタンスである。

 伝えるものは何なのか。これ無しでは、腑抜けた演武になってしまう。今後、当道場でも演武会を考えているが、そこんところをよく考えておこう。


P.S. 生前の師範の助言で、柔道をやってみろと言われてやってみて、道場開いてみろと言われて真に受けて後々に開いてみて、本を書いてみろと言われて試行錯誤している次第である。やってみれば、合気道のことは何も分かっていなかったことに気付く。気付けば、どうすればいいか考える。

P.S.2 道場開設当初は、道場は体得する練習とためにあると寡黙を良しとしていたが、道場は気づきの為にあることに気づき、すぐに方向転換することになったのである。

P.S.3 故師範が、病気で倒れられてから、口伝が重要となった。自分が社会人になってからは、手刀と間合いに関して、『妙』は当時理解できなかったが、随分と丁寧に教えて頂いた。新徳くんという事実上の一番弟子を得た今、彼の協力のもと、見えにくい要素を術に落とし、分かりやすく、積み重ねやすくする作業に勤しんでいる。

P.S.4 やはり、植芝盛平先生、塩田剛三先生の動画は見応えがある。もっと相手を感じて動かねばという気持ちが湧いてくる。
 
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